柏編(上)
中央・南部の地名
柏は河岸場(かしば)が転じた地名で利根川や舟運と関係深かったが、南部地区はかつての土村で純農村地帯であった。村名も合併した十一の小村が互助共栄と結束を誓って一字の土村にした。まるでとんち問答のような機知を感じる。一方、中央地区は旧千代田村だが、この村名もめでたい語で村の田が永遠に豊作であれと願って付けられた。今回はこれらの地区を紹介します。
領主や地形、生物が地名に
地名は古く鎌倉期に登場
2郡の境根が酒井根に
南部地区には弥生時代の宮根遺跡(広幡八幡宮境内)、鎌倉・室町時代の増尾城址(城址公園)、千葉孝胤と太田道灌が戦った中世の合戦場跡(酒井根)などがあり、古い歴史の重みを感じる。
「藤心(ふじごころ)」は鎌倉中期の古文書に下総国藤心郷の記録があるが、それより前は藤意の文字で出現する。「増尾(ますお)」は相馬御厨内益尾村の名で記録されているが、増尾は名戸ヶ谷に接する丘陵地で城山と呼ばれ、増尾の尾は山の頂上を意味した。
「酒井根(さかいね)」は古く葛飾郡と相馬郡の境で境根(さかいね)の原とも呼ばれていた。村の最重要地を根郷(ねごう)、本郷(ほんごう)と呼ぶが境根も極めてそれに近い重要な意味をもっていた。その後、境根合戦に勝った太田軍の兵たちが、のどを潤した井戸の水が美酒のうまさだったので酒井根と呼び改めたという。
「逆井(さかさい)」の草創は不明だが、本土寺過去帳にサカサイとある。「名戸ヶ谷(などがや)」は増尾城の下働きの人たちが住み着いて開いた村という。
生きものを利用した地名
土地の代表物も地名に
南部地区には自然の生きものを利用したおもしろい小字地名がある。東武野田線逆井駅の線路をまたがった広い地域を「貉台(むじなだい)」という。むじなは穴熊の異称で狸のこと。このむじなをよく見かける台地であったわけだ。また藤心の東映団地一帯は「狐峠(きつねびょう)」と呼ばれ、狐が棲んでいた峠であった。さらに野うさぎがたくさんいた「兎谷(うさぎだに)」「兎谷台(うさぎやだい)」、小さな蛇がたくさんいた「小蛇台(こじゃだい)」(いずれも柏)などの小字地名もある。田畑や野原の、一際目立った土地の代表物を地名にした地域もある。一本松・藤ノ木(藤心)三本松(増尾・酒井根)並木(逆井)松ノ木・下り松(酒井根)などがそうだ。
武将名を地名にした戸張
手賀沼に突き出た松ヶ崎
中央地区の「戸張(とばり)」は、中世の武将戸張八郎行常の子孫が居館を構えて地名になった。弥生式竪穴住居が復元されている城山に城址がある。戸張の変りもの小字に「三斗蒔(さんどまき)」地名がある。種籾を3斗蒔くほどの面積がある土地という意味である。
「松ヶ崎(まつがさき)」の「崎」は海に突き出た所の意味であり、この松ヶ崎はまさに手賀沼に突き出た台地である。ビール工場裏手の台地にある「三郡境の不動様」の地点は、三郡の境界にあたり、手賀沼が印旛郡、根戸が相馬郡、松ヶ崎が葛飾郡に属していた。この辺りを「腰巻(こしまき)」と呼ぶのは台地上の中世松ヶ崎城の城郭特有な地形を示す地名であるという。
「高田(たかだ)」や「篠篭田(しこだ)」も古い地名だが、篠篭田の地名は奈良時代の色株(しこだ)郷から志子多(しこだ)谷(平安時代)邑陀(しこだ)(室町時代)と同音変遷し、現在の地名は江戸時代以降のものである。
参考資料
- 柏市史編さん委員会「柏のむかし」「続・柏のむかし」
- 柏市教育委員会「ふるさとかしわ文化財マップ」
- 同「柏の民族/考察編」
- 同「柏市史」資料編1~2
北柏橋たもとの呼塚河岸と常夜灯
藤心の本多家代官所跡。代官所取り壊し後、四足門は名主石井家に移築されていたが、この1月撤去された。
増尾の地名由来の一つになった丘陵地の頂上にある増尾城址公園。夏は森林浴で心身がリフレッシュする。