船橋編(中)
豊富町の地名
旧豊富村は船橋市北部の地域に当たる。村の歴史は古く、神保の地名は平安時代末期、小室は南北朝時代、大神保や車方は室町時代初期からそれぞれ歴史に登場する。これら一つひとつの村は長い間、小さな農村集落を継承して都市化に遅れをとるが、周辺丘陵部は千葉ニュータウンの開発で一変する。そんな中でもなお豊かな自然と黄金色の田園風景を残し一方でそれを散策する新しい市民とも融合し合っている。
古くは平安時代からの地名も
豊富村は豊かで富む村願う
難読地名のひとつ、行行林
旧豊富村は、小室・小野田・車方・鈴身の北地域、大穴・楠が山・金堀・古和釜・坪井の南地域、さらに八木が谷・大神保・神保の西地域に大別される。
南地域は平安時代末期~鎌倉時代の萱田神保御厨(伊勢神宮の荘園)の一部であり、北地域は臼井荘の一部であった。豪族千葉氏の勢力下では中山法華経寺に寄進され、江戸時代には幕府直轄地や旗本の知行地となり、村人は将軍の鹿狩場や御鷹場の使役に駆り出されてきた。
旧豊富村は明治22年、これら12村に金堀台を加えて誕生した新村で、豊かで富む村へとの願いが村名になった。現在の「豊富町」はこれを継いでいる。
豊富村誌には、この地域は帝都に接近していながら産業文化の発達が遅れた。特に行行林から車方、小野田を経て小室に至る部落と部落の間は全く道路がなく田の畔道を行き来していた。昭和28年に県費でやっと農道が完成したとある。
この「行行林(おどろばやし)」は草木がよく茂った所で、行けども行けども林が続き、「これは驚いた」という意味が地名になった。しかし難読地名であったので、昭和30年豊富村の船橋市合併を機に「鈴身町」に改称した。この鈴身の地名は行行林の鎮守・鈴身神社に因んだものである。
小室には鎌倉文化の名残と
新しさに勝る重厚な佇まい
一方、「車方(くるまがた)」は中世の出城や砦の周りに築いた土塁や石の囲いなど曲輪があった所、「小野田(このだ)」は小さい田があったことがそれぞれの地名の由来である。
「小室」は谷間や低い土地を意味した地名で、旧家6軒を中心に台地の東側に集落がある。鎌倉時代からの村で、集落の東にある鎌倉橋はいわゆる鎌倉街道の存在を示し、「小室の獅子舞」で知られる八幡神社と本覚寺がある。これは鎌倉鶴岡八幡宮と名刹本覚寺を真似たといわれ、外来の鎌倉文化の名残を感じる。
台地の千葉ニュータウンでは中高層住宅や戸建て住宅が新興住宅都市を形成するが、その新しい風景は、往時の農村風景を残し重厚な長屋門を構える集落の佇まいには勝てないでいる。
律令時代の単位言葉を地名に
大神保には往時の農村の姿が
この鎌倉街道は現在の夏見小室線に当たるが、当時の道幅は8間(14m超)あった。小室から南下すると堂谷津台・さざめざく・神保新田のバス停に気付く。かつての地名の名残で「堂谷津台(どやつだい)」は鈴身川支流の谷頭があった所、「さざめざく」は笹の葉のように細長い低地を意味した。「神保新田」は江戸時代の開墾地で台地の開墾地を新田といった。
神保新田は現在「神保町」で、その背後に「大神保町」がある。「神保」は律令時代の村の単位で、「保」は5戸に当たる。それをそのまま地名にした。
この大神保町には、江戸中期~明治時代の長屋門をもつ農家が点在して残る。その中の泉對晃介さん宅には約260年前、江戸中期の元文年間に建てた長屋門が現存し、散策途中に見学する人も多いという。都市化が進む市内でも、このエリアには豊かな自然と往時の農村集落の姿が残り、一瞬、タイムスリップした錯覚に陥って妙に興味をかき立てる。
参考資料
- 「歩いてみる船橋」「大神保の歴史」
- 「小室のれきし」「豊富村誌」他
小室町の旧名主・米井家の長屋門。重厚な門構えは中高層住宅には負けない。
自然の遊歩道道標(大神保町)
〈写真右〉鎌倉橋から見た小室の集落。台地の林の奥は千葉ニュータウンが広がる。
〈写真左〉鈴身神社。難読地名の行行林を改称した鈴身町の由来になった。